昨今は社会全体に人の肉体的側面を重視して人の精神的側面を軽視する風潮が当たり前になっているように感じています。
今回の東京オリンピックも近代オリンピックの父、クーベルタン男爵の『参加することに意義がある』との言葉や「スポーツを通じて世界平和の維持と国際友好親善に貢献する」との崇高な精神への人々の関心は薄れ、利権まみれのIOCの商業オリンピックをを受け入れメディアのメダル獲得競争報道に熱狂させられています。
また、熱中症と新型コロナ感染蔓延中で中止や延期が当たり前にも関わらず「何のために開催されるのか?」の納得できる説明もないまま政権浮揚の手段としか思えないままに強行する政権に不信感を持ちつつも「あきらめ」が漂い、約半数の国民しか投票しないような国民的な劣化も進んでいます。
当然にこんな時期は野党が大同小異を捨て統一して明日への道を国民に示し政権交代を目指すのが本来の流れですが、特に与党には政治職業家のような二世三世の保身議員も多く、野党間では派閥対立を解消できないでいることで不信感をもたれ国民から離れた政治が進んでいます。
このように社会からも政界からも先が見えない現象は、人が本来持っている精神的側面の豊かさを裏の世界に押しやり人がもつ肉体的側面に比重を置いて自然環境を破壊することで豊かさを創り上げてきた物質文明そのもの必然的な結果のように思えてなりません。
そのことは既に前世紀末頃にローマクラブが「成長の限界」として新たな転換を示唆していますが、人が持つ肉体的存在に比重をおいた流れの「慣性の法則」を変えられないままに彷徨を続けている結果ではないかとも思います。
そのように思うと、今回の未知なるコロナパンデミックはそのような状態の人類のあり方を「前後裁断する時代の裁断機」として人知を超えた計らいが働いているように思えてなりません。
勿論、肉体的存在の豊かさを求めた科学技術の延長線上で新たな量子力学などの進化でさらなる成長をもたらすのかも知れませんが、人が本来持っている精神的存在を基本していないのであれば、現代の延長線上で現代版バベルの塔を造っているだけのように思えてなりません。
コロナ後はしばらく危機の時期が続きその後に始まる世界は、人々が本来津もっている精神的存在を思い起こし、意識変革するような風潮が漂えば明日の世界が見えてくるのだろうと思っています。
利他村は「ものと心のバランスのとれた共創共生の村つくり」を掲げ、精神的存在としては一万年の間神と自然と共生した世界を創ったと思われる縄文時代の人々の心のあり方に興味をもって学ぼうと思っています