森友・加計学園問題は安部首相の思惑を官僚が「忖度」して生じたことだと国民の大半が思っていることですがしかし「忖度」とは他の人の思いや考えを思い計らうことで「忖度」そのものは決して悪いことではなくそのような心遣いが出来る人はすばらしい人だと思います。
問題は「忖度する人」と「忖度される人」がどのような思惑を持っているかで「忖度」そのものの善し悪しが決まるのだと思います。
たとえば「忖度する人」「忖度される人」どちらの思惑も「公正無私」なる思いでの「忖度」であれば忖度の結果にかかわらず誰に指をさされることもありません。
しかし時代劇でも良くある代官と御用商人とが顔を見合わせ「お前も悪じゃノー」と互いにニヤリするような一蓮托生の利権の悪巧みのような「忖度」は断罪しかなく大岡忠相や水戸黄門の登場が必要になります。
と言うことは「不公平で私的なこと」を知りながらの「忖度」は断罪されてしかるべきで森友・加計学園問題での「忖度」は「忖度する人」も「忖度される人」も断罪しかありません。
ただ「弱い立場の人」が「公正無私」な思いを貫き通すことによって権力をもつ人に煙たがられたり不利益を被ったりすることがあることから「弱い立場の人」に「公正無私」を強いることは酷のようにも思えます。
したがって「公正無私」が求められるのは「強い立場の人」で「強い立場の人」に「公正無私」の振る舞いがないと社会から「悪しき忖度」がなくなることはありません。
そのようなことを思うと森友・加計学園問題について十分な説明が出来ないで逃げ切ろうとする安部首相の立ち振る舞いは往生際が悪い悪代官のようで他にも「日報問題」や「財務省官僚の辞任」についての責任を問われていることからももはや退陣しかないように思っています。
新たなリーダーは「戦争の出来る国としての美しい国つくり」ではなく国民の象徴として「民の平穏と平和」を願っておられる天皇の思いを忖度して「力ではなく愛による平和な国としての国つくり」を国民や世界に示し政財官人や国民が楽しく忖度ができるようなリーダーが生まれることを願ってやみません。
2018年04月20日
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