2019年10月30日

キリストと釈迦の教えとエデンの園と解脱の世界に思う

朝の散歩の途中でキリスト教会にあったチラシ「月に一度の聖書を読む会」の案内があり今までキリスト教には縁が無かったのですが参加することにしました。

 もともとキリスト教は「信じよさらば救われん」の他力信仰の教えと思っていましたので「アーメンと言えば救われる」には抵抗感もあり「天は自ら助くるものを助く」と言う自力あってこその他力が良いと思っていました。

 しかし、昨今の世界的な気象変動による異常な自然災害や資本主義経済が行き詰まり何時金融破綻が起こっても不思議で無い状況や、中東では終わり無き紛争が続きながら世界全体の自浄能力(自力能力)が失しなわれ「自力」ではもはや難しいのではないか、人知を超えた天の導き「他力」でしか救えないのではないかとの思いもあって聖書の預言やキリスト教を学んでみたいと思うようになったのだと思います。

 キリスト教については旧約聖書で預言され神の御子として誕生し、神に似せて創られたたアダムとイブがサタン(堕落した大天使ルシファー)の誘惑に負け禁断のリンゴ(善悪の知恵の果実)を食べたことにより原罪を背負い地上に追放され、その子孫の人間を救済するためにキリストが肉体をもって人類が背負う原罪を一身に受けて過酷な十字架の刑に処せられることによって贖罪され人類の罪が許される他力信仰だと思っていました。

 それに対して釈迦はこの世の人々の「四苦八苦」からの解脱の道を、人には「仏性(仏になる性)」が備わっていることを前提に、四苦八苦の原因を縁起(十二縁起)で解き三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)の仏の世界を示し、それに至るための八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)の修行を示し自力による解脱(理想世界)に至る道を説いたのだと思っています。

しかしキリストの十字架により人類が背負う原罪が贖罪されたとしてもに直ぐにエデンの園(神が意図した愛と義のユートピア)に他力で導かれるのではなく、キリストへの信仰を通して神近く純なる心に至らないと救われないことは、お釈迦さんの修行によって解脱の世界に至ることと同じで究極的には「天は自ら助くる者を助く」で「自力なくしては他力がない」ことで、信仰を教えるキリスト教も自力修行を教える仏教も至るところは同じであるように思っています。

 キリスト教では終末の時期、仏教では末法の時期にあると言われいるように現実の世界は人類自が自浄能力(自力)を見失い崩壊の時期に進むように思えることから、人知を超えた危機の時代に現在があるとすれば人知を超えた他力による救済しかないことから、縁の無かった「旧約聖書・新約聖書」とキリスト教を学び「エデンの園と解脱」に至る道を見いだせればと月に一度の「聖書を学ぶ会」に参加します。

posted by コ−エン at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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