毎月一回の「聖書を読む会」で牧師さんに「明日ハルマゲドンが起こると知った時あなたは何をしますか?」と名指しで尋ねられ一瞬戸惑ったものの「何もしないです!」と答えました。
牧師さんは「尊敬する牧師さん」の話として「その牧師さんはリンゴの苗を植えます」と答えられた話をされ「ハルマゲドンを迎えてもただただ日常の生活を続けることですね!」とのお話でした。
真の深い意味は解りませんが頷けるものを感じ、とっさに出た「何もしない!」のもそれほど間違っていなかったのではと思っています。
今までは仏教の教えに関心があり、どちらか言えば「原始仏教」の「人が仏に至る論理的な自力修行の教え」に納得するものがあり、キリスト教の「信じよさらば救われん!」の他力信仰にあまり関心を抱いていませんでした。
しかし、天変地異などが多発し飢餓(大恐慌のような)が生じ、その日の食べ物に困り果てるような状態になった時に人々を救うのは「自力修行」で極一部の修行者は救えても大多数の人々は救えないのではとの思いも抱いていました。
そのような思いもあって「聖書を読む会」に参加して学ぶようになって、文明の転換期とも言われ自然災害が多発しするような危機の時期にあっては、食料危機を乗り越えるには「信じる」だけでは無理で「自力による自給自足」が大切になりますが「不安心配など心の苦しみ」を持つ人々を救うのは「「自力修行」ではなく、平安時代の飢餓の時期に広まった仏教の「南無阿弥陀仏を唱えれば救われる」大乗仏教(他力信仰)や自然環境が厳しい砂漠の地から始まったユダヤ教・キリスト教の「信じよさらば救われん」の「他力信仰」ではないかと思うようになっています。
「他力信仰」の大乗仏教やユダヤ教やキリスト教の深い意味は良く分かっていませんが危機の時代は「人が解脱して仏になった仏陀」の教えを説く「自力修行」ではなく「仏陀(人)そのものを創った天地創造の存在(神)」を信じ委ねる教えの「他力信仰」ではないかと思うようになっています。
そして危機の時代後の聖書にあるキリスト再誕により創られる永遠の新天新地新は、まさに「他力あっての自力」の世界では無いか、そして思いつくのがそのような世界の原型の一つが既に16,000年間調和と平和の大調和が続いた「縄文時代」ではないかと思っています。
おそらく、大調和の世界は争いのない世界で争いがないのは人々の心に自己中心の思いも村や集落中心で排他の思いもなく、ただただ人知を超えた存在(神)を自然に受け入れ神と共に自然と共にあることに感謝し「神の愛」を実感しながら過ごす人々であったから生まれた世界で、現実の食をや住まいも「愛(利他)の思いで助け合い、分かち合うことで維持されている世界では無いかと思っています。
そのような世界の原型の「縄文時代の人々のあり方」を聖書を通じてさらに学び「懐かしい未来」としての未来世界を描くことができればと思っています。
ちなみに私はクリスチャンではなく、さりとて仏教徒でも無く、ただただ「真理(神理)」を学びたい1人です
2021年03月18日
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